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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)9244号 判決 1987年11月30日

原告 甲野太郎

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 石田哲一

被告 国

右代表者法務大臣 林田悠紀夫

右指定代理人 伊東敬一

<ほか二名>

被告 明石俊雄

<ほか一名>

右三名訴訟代理人弁護士 真鍋薫

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告ら

被告らは各自原告らそれぞれに対し金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五五年九月二〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言

二  被告ら

主文同旨の判決

第二当事者双方の主張

一  請求原因

1  原告らは夫婦であり、甲野三郎(以下「三郎」という。)は原告らの三男である。

被告国は、精神病院である国立武蔵療養所を開設しており、被告明石俊雄(以下「被告明石」という。)は、昭和五五年二、三月当時、国に雇傭され、同療養所に勤務していた精神科医師であり、被告猪瀬正(以下「被告猪瀬」という。)は、当時、同療養所の所長の地位にあったものである。

2  原告らは、三郎の保護義務者として、昭和五五年二月二六日、被告国との間で、三郎を武蔵療養所に入院させ治療を受けさせる旨の契約を締結し、三郎は、同日、同所に入院して、被告明石を主治医として治療を受けていたが、同年三月一一日午前八時三〇分ごろ、許可を得て外出したまま行方不明となり、同日中に、同所構内の使用されていない建物の中で、縊死した。

3(一)  三郎は、同年一月ごろからいわゆるうつ状態になり、同年二月一九日、自宅で自殺をはかって未遂に終り、外科病院に入院し治療を受け、退院した同月二五日の夜に再び自宅で自殺をはかって、原告らに取押えられたが、そのため、原告らは、翌二六日、武蔵療養所へ三郎を伴って行って、被告明石の診察を受けさせた結果、同被告は、治療の必要を認め、三郎を入院させることとした。

(二) 右の経緯から、入院にあたり、原告らは、三郎の自殺防止を主眼として、その保護を武蔵療養所に依頼したものであり、被告明石及びその他の係員らもそれを承知して、入院を承諾したものである。原告らは、被告明石に対しては、とくに(1)患者は一人では外出させない、(2)面会は明日からでも良い、(3)厭世感がなくなれば自宅からの通院とする、との事項を確約させたうえで、三郎の保護・治療を依頼したものである。

(三) 三郎は、入院後、自殺防止のため、閉鎖病棟の個室に収容、保護されていた。

(四)(1) しかるに、被告明石は、同年三月五日、原告らには何らの報告も相談もなしに、三郎に院内の単独外出を許可した。

(2) 三郎は、同年三月六日に、自宅一泊を許可され、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)の出迎えで自宅に帰り一泊したうえ、翌七日、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)に伴われて、再び武蔵療養所に帰った。

(3) 以後も、三郎は、毎日引続いて院内の単独外出を許されていたが、同月一一日、前記のとおり、外出して、自殺するに至った。

4(一)(1) 被告明石は、精神科医師であって、入院患者について治療、保護、監視の義務を負うものであり、三郎については、入院の際、同人及び原告らから、自殺未遂の病歴を詳細に聴取し、診察の結果うつ病と診断し、原告らがひたすら自殺防止の目的で入院させることを十分承知のうえで、自己の判断で、自己が主治医となる閉鎖病棟に入院させ、原告らに対し、三郎を単独では外出させない旨を確約したものである。しかるに、被告明石は、入院から僅か一週間余後の三月五日には、右確約に反し、原告らに何らの報告もなく、院内での附添なしの単独外出を許し、翌六日は一日外泊を許し、その後も引続いて単独外出を許し、一一日の外出に至った。

(2) 自殺未遂の既往歴のある初期うつ病患者の自殺防止には、少なくとも数か月は監視継続の義務があることは常識であるが、被告明石は、自ら三郎の精神状態について看護したことはほとんどなく、担当の看護士及び看護婦(この両者を合わせて以下「看護者」ということがある。)に対して何らの具体的指示を与えたこともなく、患者の病状を詳細に記録しておくべき看護記録を検討したこともなく、三郎の病状を軽く判断していたのであり、このことは、同被告が、入院時に、入所病歴に既往の自殺未遂の事実を記入し、とくに「自殺行為に注意」と特筆しておきながら、その後の三郎の看護については、入所病歴に、数日間多少の記載があるのみで、三月六日に外泊を許した以後、同月一一日に行方不明になるまで何らの記載がないことからも明らかである。

(3) 看護記録には、本来、病状、看護の内容、対策等を毎日記載すべきものであるが、三郎の看護記録には、きわめて簡単で断片的な記載しかなく、冒頭に治療指示として「自殺企図に注意」と特筆されているのにかかわらず、交代で保護にあたる看護者は、三郎との接触の詳細について記入せず、中には自殺企図の消えていないことを窺わせる記載があり、これに気付いた看護者は、同僚や医師に相談して監視の方法を考慮すべきであるのに、これについていかなる措置をとったかも不明であり、結局、被告明石の命ずるままに単独外出を続けさせ、自殺に追いやったことについては、看護者にも責任がある。そして、被告明石は、看護者を監督すべき立場にありながら、監督を怠ったものというべく、この点において三郎の保護、監視につき過失がある。

(4) したがって、被告明石は、原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償責任を負う。

(二) 被告明石は、三郎の武蔵療養所への入院に際し、入院治療契約締結の衝に当たったものであるが、原告らは、武蔵療養所が精神病院として国内有数の優れた病院であり、被告明石にはかつて原告らの二男の治療を受けたこともあって、その医師としての手腕を信頼し、治療、保護を委ねたものであって、同被告は、自殺防止のための入院であることを承知のうえ、進んで三郎の閉鎖病棟への入院を勧め、原告らと単独外出禁止の特約をしたのである。このような事実関係のもとにおいては、主治医としての被告明石個人と原告らとの間にも、三郎の自殺防止のための治療、保護、監視を内容とする契約が成立したものというべきである。しかるに、被告明石は、三郎の病状について誤診し、たやすく、自殺のおそれのないものと判断し、原告らとの特約を無視して、単独外出を無条件で継続的に許し、自殺の機会を招いたのであって、右契約上の義務の履行を怠った責を免れない。

5  被告猪瀬は、武蔵療養所の所長の地位にあり、被告国に代わって、同療養所の経営、職員の業務の監督に当たっていた者であるから、その監督下にある医師である被告明石の医療行為上の過失により原告らに与えた損害については、民法七一五条二項による代理監督者として、賠償責任を負う。

6(一)  被告国は、その被用者である被告明石がその事業の執行について、前記のとおり原告らに損害を与えたものであるから、民法七一五条一項によりその賠償責任を負う。

(二) 前記のとおり、原告らと被告国との間には、三郎の入院治療の契約が締結されたが、右契約は、三郎の自殺防止を主眼とした治療、保護を目的とするものである。しかるに、前記の経過で三郎が自殺に至ったのであって、被告国は、右契約上の義務の履行を怠ったものというべく、債務不履行責任を免れない。

7(一)  前記のとおり、原告らは、日本有数の精神病院である武蔵療養所を信頼し、かつ、被告明石を主治医として信頼して、三郎の生命の安全を願って、同人を入院させたのに、右のような結果となったもので、その精神的苦痛は甚大である。

(二) しかも、昭和五五年三月一一日朝、三郎が外出したまま行方不明になった後、被告猪瀬、同明石を初め病院職員らは捜索を十分になさず、また、原告らが、入院から行方不明になるまでの病状と病院の執った処置について質問しても、何の説明もなかった。そして、行方不明後四十数日を経た同年四月二七日午後に至って、遊んでいた中学生が、病院内の使われていない建物の便所の中で三郎が縊死しているのを発見したのである。被告らの側のこのような誠意を欠く態度も、原告らの精神的損害を評価するにあたって斟酌すべきである。

(三) その他諸般の事情を考慮し、原告らの精神的損害に対する慰藉料の額は、各一〇〇〇万円とするのが相当である。

8  よって、原告らは、それぞれ被告ら各自に対し、慰藉料一〇〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和五五年九月二〇日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  答弁

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の内、三郎が縊死したのが昭和五五年三月一一日であることは否認し、その余の事実は認める。

3(一)  同3(一)の事実は認める。

(二) 同3(二)の事実は認める。ただし、「患者は一人では外出させない」ことを確約したというのは、自殺の危険性のある間は一人では外出させないという趣旨である。

(三) 同3の(三)及び(四)の各事実は認める。

4(一)  同4(一)の被告明石の過失は争う。

(二) 同4(二)の事実は否認する。診療契約は、病院開設者たる被告国との間で成立したものであり、被告明石はその履行補助者にすぎない。

5  同5の主張は争う。被告猪瀬は、武蔵療養所の所長として、所属職員を指揮監督する立場にあるが、各担当医師の個別的、具体的な診療行為について指揮監督する権限義務を有するものではない。

6(一)  同6(一)の内、被告国の被用者である被告明石がその事業の執行として三郎の診療に当たったことは認めるが、その過失は争う。

(二) 同6(二)の主張は争う。

7  同7(二)の内、三郎の遺体発見の日時、場所、発見者は認めるが、その余の主張は争う。武蔵療養所側では、三郎が散歩に出たまま帰棟しないことが判明した三月一一日の午後から、病院の内外の捜索を始め、同日午後七時ごろ、小平警察署に保護願を提出し、翌日以降も病院内を隈なく捜索し、とくに自殺現場となったリネン室倉庫裏の便所は、三月一二日に戸を開けて内部を点検し、同月一五日にも再点検したが、異常がなかったものであり、三郎はその後に同所において自殺したのである。

三  被告の主張

1(一)  三郎は、昭和五五年二月一〇日ごろから、仕事のことや職場の人間関係等で悩み、不眠、抑うつ感、自殺念慮が強まり、自殺を企てた後、同月二六日、両親の同伴で、武蔵療養所で受診した。被告明石は、三郎の話しぶりや応対の態度が、落着いているというより、淡々としすぎており、自分自身が悩み、どうしようもないといった内容を供述しながら、感情がこもっていず、冷静すぎると感じられ、抑うつ気分、自殺念慮、厭世感が認められたため、分裂病を混在するうつ病と診断した。被告明石は、原告らに対し、これらの所見から、入院していても自殺の危険はあり得る旨を説明したうえ、一―四病棟(内因性、急性男子閉鎖病棟)の六号個室に収容し、治療指示として自殺企図に注意することとし、コントミン(精神安定剤)、睡眠導入剤二種等の投薬を処方した。その夜は、三郎は良く眠った。

(二) 翌二七日には、一号個室に移したが、同夜も三郎は良く眠った。二八日、三郎は、被告明石に対し、「厭世感は大分とれた。死と生のどちらかをとるなら、今は生をとる。」と話し、看護婦にも「退所に向けて頑張りたい。」等と話した。二九日、三月一日にも、「早く職場に帰らなくては……」と看護婦に語り、二日には、言動がはっきりし、歩行も良く、「気分が良い」と言い、運動したいと言って、三日朝のラジオ体操に参加した。その間毎夜良く眠っていた。四日午前には、戸外のレクリエーション活動(ソフトボール等)に参加し、外に出て良かったと言って帰り、午後、被告明石と面接し、「自殺企図に関しては罪悪だと考えるようになった。」と述べ、心配するのは仕事のことだと言うが、表情は穏やかでゆとりがあり、質問に対する応答は十分で、ゆっくり落着いた感じで話していた。

(三) そこで、明石医師は、三月五日、所内散歩を許可し、幸三は、一時間単独で散歩して来た。精神的には安定してきており、「自殺なんてできないものですね。」と言った。同日から、初回の処方中コントミンを減量した。

(四) 三月六日、会話も穏やかに落着いて余裕がみられたので、被告明石は、一泊の外泊を試みることにし、原告花子に電話し、病状経過と、外泊させたい旨、その目的、外泊中の観察記録や世話のことについて説明し、了承を得た。そして、原告太郎が迎えに来て、三郎は、一六時二〇分外泊に出た。外泊中の様子について、原告花子が記載したところによれば、「話ぶり普段と変りなし。言葉も明瞭、仕事を気にするときは顔をしかめる。」と観察された。七日一六時四〇分帰棟し、一〇号室(二人部屋)に移った。看護婦に「外泊は良かったですよ。」と話しかけてきたが、言葉は少なかった。

(五) 三郎は、八日、友人二人と面会し、落着いており、三回外出散歩し、九日、時折外出し、夕食後、看護婦に、「気分に波があるんです。そううつみたいな感じです。」とゆっくり落着いた様子で訴えていた。一〇日、朝散歩し、午後、病棟レクリエーション(ソフトボール、バトミントン等)に楽しそうに参加していた。

(六) 三郎は、一一日午前八時三〇分ごろ、「散歩」と外出簿に記入して出棟を求め、看護婦は、三郎の表情、態度、身仕度に特別に変わった様子がみられなかったので、ドアを解錠し、散歩に出した。ところが、昼食時に帰棟していなかったので、外部に出た可能性を考え、看護婦が、一四時ごろ、原告ら宅に電話し、帰宅していないことを聞いて、以後捜索を始めたのである。

2(一)  精神病院に自殺念慮を有する患者を受け入れる場合、自殺の防止は、他の種の事故防止と同列に論じられるものではなく、入院させ治療を行うことにより、病状の改善とともに、希死念慮を消退させ、自殺の危険から脱せしめるように力を注ぐのである。自殺を人間社会から根絶することは不可能であり、とくに精神病患者は、将来への不安の中から死を思うことは一面自然なことであるとともに、いったん自殺を決意したときは、あらゆる手段をもって、その機会を窺い、実行に移すのであり、自殺企図を心の内に秘めて極力表に現わすまいと努めているのである。このことは、うつ病患者についても同様であり、うつ病患者には最も自殺率が高いのは事実であり、しかも病気の初期や回復期の比較的症状が軽い時期に自殺が行われるので、自殺の予見はしばしば困難である。しかし、精神病患者が、何時如何なる異常行動に出るかもわからないからといって、四六時中絶えざる厳重な監視下におくことは、患者に対する不信であり、人格尊重上好ましくなく、プライバシーの侵害ともなり、医療の根本理念である信頼の原則が根本的に破壊され、治療効果が阻害されることになる。今日、精神病の治療においては、患者の人格の尊重と患者への信頼が、治療効果のうえで最も重要な因子とされている。しかも、統計的にも、開放的取扱いが閉鎖的取扱いに比して自殺率が高くなっているわけではなく、他方で、非抑圧的入院治療が抑圧的入院よりも回復率が高く、入院期間も短いことが知られている。

したがって、たとえ過去に自殺企図がある患者でも、精神症状を改善し、社会的復帰を促進するためには、開放処遇を避けることはできない。自殺未遂が過去にあるばかりに、自殺をおそれ長期的に閉鎖的処遇をすることは、非医療的であることはいうまでもない。そのために、症状の改善のみられる患者には、開放的処遇に踏み出す時が必ず訪れ、そのときには医療担当者側にある程度の不安は避けられないが、だからといって、自殺の実行について予見可能性があったとすべきではない。

(二) 入院前に自殺未遂をし又は自殺念慮の強かった患者でも、入院後は、院内の治療環境、すなわち、病院内の雰囲気、職員や他の患者との対人関係が患者に好影響を与え、抗うつ剤等の治療薬が奏効するため、自殺念慮は通常軽減する。本件において、三郎は、自殺未遂をして入院したにもかかわらず、治療担当者との接触の中で、入院三日目の二月二八日には、生と死とでは生を選ぶ旨を述べ、四日目、五日目には社会復帰の希望を述べ、言動もはっきりし、良眠するようになり、八日目にはレクリエーション活動にも参加できるようになった。そこで、明石医師は、九日目の三月五日に単独散歩を許可し、部分的な開放療法に移行した。いわゆる開放療法の一部として実施される自由散歩の目的は、患者に積極性、自主性を回復させ、社会的適応力を引き出し、日常生活を送るに足る能力を身につけさせることにある。そして、本件においては、主治医と患者との間に信頼疎通関係が生じた段階で、区域を療養所構内と指定し、説得のうえ自由散歩を実施したのであり、開放療養の趣旨に鑑み、自殺事故を予見し、それを防止するために同伴者をつけ又は監視人をおくべき注意義務があったとはいえない。

三月五日の単独散歩は何事もなく成功し、翌六日には、観察の結果、外泊を試み、それも効果があったとみられ、以後一〇日までの散歩にも異常はなく、失踪当日まで、三郎の言動に自殺企図が表われることはなかった。したがって、失踪当日の朝においても、客観的、具体的に自殺念慮がなお残存し、自殺の危険性があることを事前に予測することはできなかったもので、散歩を禁止したり、その他特段の措置をする必要がないと判断したことには、診断看護上の誤りはない。

第三証拠関係《省略》

理由

一  請求原因1の事実(当事者の身分関係、地位等)は、当事者間に争いがない。

同2の事実(診療契約の締結、入院及び死亡)は、三郎の死亡の日を除いて、当事者間に争いがない。

二1  同3の事実(入院前及び入院後の経過)は、当事者間に争いがない(ただし、同3(二)(1)の確約の趣旨については争いがある。)。

2  そこで、診断、治療・看護の経過について少し詳しく検討するに、《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない(なお、以下の認定中の各事実の末尾に「(入)」と記したものは乙第一号証入所病歴中にその旨の記載があるもの、同じく「(看)」と記したものは乙第三号証看護記録にその旨の記載があるものを意味する。)。

(一)  三郎(昭和二七年八月一六日生)は、大学工学部の印刷工学科を卒業して、印刷会社に約三年間勤務した後、その仕事にあきたらず、転職して、昭和五四年七月、東京都労働経済局(乙山高等職業訓練校)指導員となったが、新しい仕事の内容に自信を持てないことと、職場の人間関係に悩んで、抑うつ状態が募り、自殺を考えるようになり、昭和五五年二月一七日、一八日に、自宅でビニール袋を頭に被り、コードで自分の首を絞めるなどの行為をし(それが真に自殺の決意によるものであったか否かは明らかではないが)、一九日早朝、ウイスキーをボトル半分位飲んだうえ、カッターナイフで左手首を切って自殺をはかり、救急車で外科病院に運ばれ治療を受けたが、同病院に入院中も点滴を操作して血管に空気を入れようと試みたり、枕元のコードを首に巻いてみるなどの行為をし、同月二五日、同病院を退院したが、その夜自宅で、コードを梁に掛けて縊死しようとして、母に発見され、未遂に終わった。

(二)  そこで、原告らは、翌二六日朝、以前原告らの二男甲野二郎が診療を受けたことのある被告明石に電話で予約したうえ、三郎を伴い武蔵療養所に赴き、被告明石の診察を受けさせた。その際、問診に応じて、原告らと三郎自身とが概ね右の経過を述べたが、それによって被告明石が三郎について受けた印象は、「話し振り、応対態度は落着いているというかむしろ淡々とし過ぎている。自分自身が悩み、どうしようもないといった内容を供述するが、感情がこもっていない、冷静すぎる。」というもので、抑うつ気分、自殺念慮、厭世感がいずれも認められるとの所見であった(入)。そこで、被告明石は、内因性うつ病と診断し三郎を入院させることにし、原告らの承諾を得、三郎もこれに素直に従った。被告明石は、診療録に相当する入所病歴には、診断として断定を避け「ボーダーライン」と記し、現病歴欄及び入所時所見欄に右の聞取った内容と所見を全て記載し、指示事項の用紙の冒頭に「自殺行為に注意!」と記し、コントミン(精神安定剤)五〇ミリグラム三錠、ピレチア、睡眠導入剤二種等を七日分処方し、三郎を一―四病棟の個室六号室に収容した。

(三)  一―四病棟は、男子の内因性精神障害者を収容する閉鎖病棟で、個室八室、二人ないし六人の室八室から成り、病床数四八で、病棟の入口に施錠しているが、各病室には原則として施錠していない。同病棟における医療従事者は、医長である豊田純三医師と被告明石医師、看護士及び看護婦を合わせた看護者は一四名で、看護者の勤務は、日勤、準夜勤、深夜勤の三交代制であった。

被告明石は、昭和四五年に医師免許を取得し、約三年間の病院(精神科)勤務と約二年間の大学(精神神経科)助手を経て、昭和五〇年一一月一日から武蔵療養所に勤務するものであって、その勤務は、一―四病棟の入院患者の診療にあたるほか、週一回外来診療に携わり、また、研究室にいることも多く、保健所へ行くこともあるという状況であった。

(四)  看護記録は、看護者が、患者ごとに、毎日の医療行為や、患者の言動、状況等で今後の処遇上参考となりあるいは留意すべき事項を記録しておくものであり、医師も、診療にあたって、これを見て病状の経過を把握する資料とするものである。三郎の看護記録には、入院当日、看護婦が、その冒頭に前記入所病歴に記載された入所までの経過の一部を転写したうえ、治療指示欄に「自殺企図に注意」と大書し、経過用紙に、入院時の状況を記した後に、看護士が「自殺企図あるため注意を要す!」と朱書した。それによって、以後看護者は、常に自殺防止を念頭に置いて三郎の言動に注意し、看護にあたり、また、自殺企図という観点から意味のあると思われる事項を記録するよう心掛けることが期待されるわけである。

(五)(1)  三郎は、二六日夜は、傾眠状態で、食事も三分の一位しか食べずに眠ってしまった(看)。

二七日は、レントゲン室へ行き、あるいは六号室から看護婦室に近い一号室へ移るのにも素直に従い、眠気を訴え、「俺はやっぱりおかしく見えるかなあ」と呟いたが、概ね室にこもって寝ていた(看)。

(2) 二八日、三郎は、被告明石の面接に対し「厭世感は大分とれた。死と生のどちらかをとるとすれば今は生をとる。」と言い、また「自分のことは自分で始末しなくちゃいけないと思っている。」と言い、仕事の上で人に迷惑をかけるのではないかという不安、一年半位前から趣味に興味がなくなっていたことなどを語った(入)。

他方、同日は、ずっとホールで過ごし、他患者とも接触し、穏やかな表情でおり、母の面会には手を挙げて喜ぶ様子を示し、今までのひねくれた態度を反省することを言い、「退所に向けて頑張りたい。」と話した(看)。

(3) 二九日、三郎は、被告明石に対し、恐らく前日の母との面会の結果であろうが、「上司からの母への連絡でなるべく早く職場復帰するように言われた。」と言い、また、「自分としては電車に飛び込めば莫大な賠償費をとられるし、首をつれば苦しいし、もうやりたくない」と語った(入)。他方、看護婦には、看護婦の勤務体制を聞いたり、「早く職場に帰らなくては……」と自然な調子で話していた(看)。

(4) 三月一日には、三郎は、面会に来た父に、大変良くなったとの印象を与え、看護婦室に来て、「運動不足で肥ってしまう。早く社会復帰しなければ……」と笑顔で話した(看)。

二日、言動がはっきりし、歩き方も良くなってきた。「気分が良い。」「身体がなまるから何かしたい」と言った(看)。

三日、朝のラジオ体操に元気に参加したほかは、他患者との接触がなく、自室でほとんど過ごしていた(看)。

なお、一日から三日までの医師の問診の有無については、入所病歴に記載がない。三郎は、入所以来毎夜良く眠り、入院当日を除いては、食事も残さずに食べていた。看護婦に対しては、あまり多くを語らず、時折、以上の程度のことを口にするほかは無口で物静かな態度であり、それは、裏返せば、抑うつ感の抜け切らない状況とも考えられるものであった。

(5) 三月四日、午前、三郎は、戸外のレクリエーションに出た。非常に嬉しそうにして出て、「良かった。」と言って帰って来た(看)。午後、被告明石の面接においては、「自殺企図に関しては、罪悪だと考えるようになった。今心配なのは仕事のこと」と語り、同医師の所見としては、全体的に落着いており、質問に対する答えは的確であり、幾分表情にゆとりが出て来たように見えた(入)。

(6) 五日、三郎は、被告明石の面接の際にも、精神的に安定してきていると認められ、夜は良く眠れると言い、「すっきりしてきた。自殺なんてできないものですね。」と語った(入)。

そこで、被告明石は、睡眠、食欲の状況、対人反応における感情表出などの状況を総合的に判断し、三郎が精神的に安定したものと認め、療養所内で単独で散歩に出ることを許可し、同人は、同日、昼食後約一時間散歩した。なお、同日の処方から、コントミンを減量した。

一―四病棟においては、単独外出を許可された患者は、出棟簿に氏名、目的、時間を記入し、看護者に病棟入口の錠を開けて貰って出るのであるが、いったん許可のあった患者については、看護者が、看護記録にその旨を記載し、その後は、とくに医師の異なる指示がなく、患者の挙止、所持品等において不審の点が認められない限り、原則として、一々医師の個別の許可なしに、再度の外出を許すことにしていた。

(7) 六日も、三郎は、被告明石の面接において、顔付きは悪くなく、落着き、余裕があると認められた(入)。そこで、同被告は、一泊の自宅外泊を試みることとし、電話で原告花子に大体の様子を語って外泊の承諾を得、三郎自身も大変喜んだので、原告太郎に迎えに来させて、帰宅させた。三郎は、七日の夕方帰院し、看護婦に、「外泊は良かったですよ。」と話しかけたが、言葉は少なかった(看)。

外泊中の様子について、被告明石の記した用紙に原告太郎が記載したところによれば、三郎は、自宅では、食事の量、食事態度等は平常と全く同じで、入浴もし、薬を飲んで約一〇時間半良く眠り、六日夜、兄、姉、職場の同僚等四人に、七日朝、上司に、それぞれ電話をし、外泊の旨報告しており、話し振りは普段と変りがなく、言葉は明瞭であったが、ただ、仕事を気にするときは顔をしかめるというものであった。

(8) 八日、三郎は、友人二名の面会があったが、落着いており(看)、一時間位ずつ三回散歩に出た。

九日も、朝一時間半、午後四〇分間位散歩し、夕食後、看護婦に、「気分に波があるんです。躁うつみたいな感じです。」とゆっくり落着いた様子で訴えた(看)。

一〇日も、朝食後と午後各一回散歩に出たほか、レクリエーションに出、短時間だが楽しそうに参加していた(看)。

なお、外泊から帰院した後、三月一〇日までの間に、被告明石が面接したことについては、入所病歴にも看護記録にも全く記載がないが、それは、面接はしているけれども、特段に変わったことがなかったため、入所病歴への記載を怠ったものである。

(9) 一一日朝八時三〇分ごろ、三郎は、出棟簿に散歩と記載して外出を求め、看護婦は、三郎の態度に格別異様な点を認めなかったので、解錠して外出させたが、それきり三郎は帰棟せず、昼食時に、帰棟していないことが確認されたため、午後二時ごろ、看護婦が三郎の自宅に電話して、原告花子に帰っていないかと尋ね、その後捜索を始めた。しかし、四月二七日、使われていない建物の便所の中で縊死体となって発見されるまで、三郎の行方についての手掛りはつかめなかった。

(六)  三月一一日夕、看護婦が三郎の行方の手掛りとなる物を求めて所持品を点検したところ、入院以来の日記を記した手帳が発見された。三郎が右手帳を所持し、日記をつけていることは、それまで看護者側の誰も知らなかった。

(1) 右日記の入院日から三月五日までの項には、食事の内容や備忘的な記録のほか、父母に対する同情の表白、薬のため頭が鈍く、レクリエーション(四日)にも身体が動かないことなどのほか、若干の自己嫌悪ないし厭世的な気持を示す記載があるが、直接死を思うような記載はない。

(2) 外泊許可のあった六日の項には、「どういった形で学校に戻るのか、連続性が思い付かない。」との記載があり、帰宅後書いたと思われる部分に「甘えが甘えを呼び悪い状態になった。何時もあんなにニコニコしている訳には行くまい。」等の記載がある。

(3) 七日の項には、「学校にTEL、大きな問題になってしまっているのには誤りはない。」「おいぼれた両親にずい分心配させた。」「四月には学校に戻るのだがまた勉強しなくてはならない。色分解のノウハウを覚えないといけないと思う。苦しい、苦しい、何やってもどうなるか解らないが苦しい。音も立てずに生きて行かなくてはならないのか。」「何が社会復帰だ。」「ほんとに苦しい日々が来るであろう。」「『開き直って図々しく』―そううまくゆくであろうか。」などと記載している。

(4) 八日の項には、「安楽死を望む。」「やはり私には死がない。」(原文のまま)、「グッド・バイである。」「指導員として生きて行けない。」「薬が効いて自殺の事を考えられなくなっている。」などとの断片的な記載がある。

(5) 九日の項には、以下のような記載がある。「すごく頭がすっきりしているし、本気で○○を考えなくてはならなくなっている。騒ぐだろうな。しかし、僕としてはこのままやって行けない。外出許可を利用すれば可能だ。飛び降りるという考えよりもズリ落ちるという方法をとれば(数文字不明)死と結びつくであろう。〔9Fから、9・30決行、三月九日〕ただ出来そうにもないと言う気がする。判断を失っているからだ。」「気持を統一すれば自殺の為の自殺は可能だ。恐ろしかったら目をつむればよい。今の自分は仕事も自殺もない感じだ。ほんとに死ねるのか。」「今の自殺は明らかに自分に対しての行為であり 同情はない。」(以下は頁を変えて少し整った筆蹟により)「三月九日 何由か、午後本番をやろうとしたら 明石先生の事を思い浮かべ、決行できなかった。あんな小汚い使われもしないトイレで一生を終ろうとした時、これほどバカバカしい事はないと思った。生れ変わった気持でしんけんに生きなくてはならないとさとった。とんでもない事をしてしまったものだ。終ったことはもうくやむまい、と今は思う。」。

(6) 一〇日の項には、「ベッドの上で死にたいとかなんとか、ぜいたくな死を思ってみても、現実にはない。明石先生には申し訳けないが、あの小汚いトイレで終らせてしまうのか。」「理性をもって立て」「仕事がほんとに出来ない。」「三回目の正直でやるぞ」「やはり出来なかった。要するに今の状態では、死ぬ気にすらなれないと言った所。希望……ベッドの上での安楽死又は一家そろっての心中。ほんとにおれは二回も本格的ミスイを犯したのである。」等の記載がある。

(7) 三月一一日の項の全文は「もう三週間もたった。何をどうすれば良いのかよく解らない。薄汚い使われもしない便所、[男は責任をとる]」というものである。

(8) 何日に記載したものかが不明であるが、一一日の記載より後の頁にも、「やはり死にたいのである。」等の死への念慮、厭世感、絶望感の表現と解される語句が五頁にわたって断片的に記載されている。

三1  《証拠省略》によれば、うつ病患者の自殺と診療に関し、次のとおり認められ、他にこの認定を左右する証拠はない。

(一)  内因性うつ病の患者には、自殺念慮が強く、同病の入院患者中に、自殺未遂の経験を有する者は三〇パーセント近くに及んでいるという調査もあり、また、全患者の半数近くが心中に死を思っているという説もある。もっとも、死を意識する患者の全てが自殺の実行に踏み切るわけではないが、一度自殺未遂をした者は、再度実行する危険が高い。病気の最も重い時期には、行動も抑制されるので、自殺を遂行することは少ないが、初期と回復期には、気分が不安定で、軽く明るい状態と深い絶望感との間をゆれ動く状態であり、そのような状態で自殺をはかることが多い。しかし、うつ病患者は、多くの場合、むしろ自殺についての予告的徴候が乏しく、自殺念慮を故意へ秘匿しつつ、死へ直行する傾向があり、その具体的な危険を読みとるのは困難なことが多い。

(二)  自殺防止の必要があるからといって、患者を完全に拘束し、四六時中監視下に置くことは、うつ病の治療の面においては有害である。すなわち、精神科医療の本来の目的は、病気の治癒と患者の社会復帰にあり、このことは、うつ病患者に対する医療においてもなんら変わるものではない。もっとも、うつ病患者には前記のとおり自殺念慮が強い場合があり、患者が自殺をすれば、前記の医療目的も達成不可能になるのはもちろんであるから、自殺念慮の強い患者については、自殺を防止する措置を執ることも重要な医療行為の一つであることはいうまでもない。しかし、だからといって、一概に、患者に対する閉鎖的処遇を施し、監視を強化すれば、自殺が防止できるというものではない。なぜなら、自殺念慮の強い患者は、監視の有無・強弱にかかわらず、あらゆる機会をとらえ、可能な限りの手段を講じて自殺を企図するものであるから、患者に対する監視を強化することによって、相対的に自殺企図の機会を減少させ、その発見・阻止を比較的に容易にすることができるとはいえても、それ以上に、これによって自殺を完全に防止することができるというものではないからである。この意味で、開放的処遇は、患者の自殺の原因ではなく、機会的な要因にすぎないといえる。しかも、精神科医療の本来の目的に照らしてみても、閉鎖的処遇を長期化させることが、患者の社会復帰を遅らせる結果につながる原因となることはいうまでもない。そればかりではなく、病気の治療という目的からみても、精神科医療は、患者の精神の内面を医療の対象としているという特質から、医師と患者との間の信頼関係の確立が、治療効果を上げるための不可欠の前提条件として、他の医療の領域におけるよりも格段に重要となってくるが、患者の閉鎖的処遇や監視は医師と患者との間の信頼関係の確立を妨げ、ひいては、病気の治療という精神科医療の本来の目的を阻害する要因となる。このような趣旨において、現在、精神病患者について閉鎖的、抑圧的治療の弊害が指摘され、開放的、非抑圧的な治療を原則とすべきことが、一般に承認されているところであり、うつ病患者についても、このことは全く異ならない。したがって、自殺未遂をして入院した患者を、当初は閉鎖状態において収容しても、その後病状が改善され精神状態の安定がみられた場合には、なるべく早期に、状況を観察しつつ順次開放的処遇に移行して行くのが相当である。そして、開放的処遇には、家族や看護者の理解と受容的態度が必要であるが、とくに、治療効果の面でも、患者と主治医との間に信頼関係が確立され、医者が患者に自殺しないよう約束させることが肝要である。

2  右にみたところによれば、一般的には、うつ病が全治しきっていない間は、自殺の危険性は常に何がしかは存在するのであるが、それにもかかわらず、治療の目的からは、開放的処遇に移行することが必要とされるのであるから、どのような病状の段階でどの程度の開放的処遇を行うかを決定することは、診療行為の核心に属することであって、医師が、そのときの医療水準上要求される医学的知識に基づき、かつ、患者の病状の変化の的確な観察に即して、治療効果と危険とを衡量しつつ、判断すべきであるとともに、処遇が個々の患者の精神状態の多様性に応じたものでなければならず、かつ、病状の診断が、検査データ等の客観的資料により得るものでなく、医師による患者の表情や挙止動作の観察と対話の内容に依拠する部分が大きいものであるだけに、右の決定にあたっては、医師の裁量的判断に委ねられる範囲が広いものといわざるを得ない。したがって、医師が患者の病状を注意深く観察し、自殺念慮が軽減し、開放的処遇によって改善を期待し得るものと判断して治療方法を選択した場合に、この判断に医学上不合理な点が認められないときには、たとい医師の見込に反して不幸な結果を招いたとしても、そのことの故に医師の過失を問うことはできないと解される。

四  そこで、被告明石の過失について検討する。

1  まず、前掲乙第五号証手帳は、三郎の失踪後、その所持品中から発見されたものであり、精神病患者といえども、とくに有害危険な物を所持していることが疑われる事情のない限り、医師や看護者が患者の所持品を濫りに検査することは許されないところであって、右手帳の存在を知り得なかったことについて、病院側に過失があったとはいえないから、診療行為の当否の判断にあたっては、右手帳の内容を直接考慮に入れることはできず、右手帳は、裏面から三郎の心の動きを知る資料としてのみ参考にし得るものである。

そこで、前記二2に認定したところによって考えるに、三郎は、入院当初から、投薬の効果であろうが毎夜良く眠り、落着きを見せ始め、入院三日目の二月二八日には、自殺企図を反省し、生への欲求を語り、以後三月四日までの間、抑うつ感が残存していることは当然ながら、かなり落着きを見せ、言動もはっきりし、社会復帰への意欲もほのめかし、四日の戸外レクリエーションにも喜んで参加し、四日、五日の被告明石の面接時にも、全体的に安定感が認められ、表情にもゆとりがみられ、そして、明瞭に、自殺を否定する言を述べたのであり、とくにこの、医師の面前で自殺を否定したことは、前記三1(二)の医師、患者間の信頼関係の形成の事実として注目されることである(このような信頼関係が一応は形成されたことは、前記認定の手帳の記載中にも、被告明石を裏切ることの反省が自殺を阻止する要因となっていると認められることから裏付けられる。)このような経過に鑑みると、三月五日の段階で、被告明石が、開放処遇の第一歩として、三郎に所内散歩を許したことは、十分な根拠のある判断に基づく相当な治療措置の選択であったというべきである。

もっとも、前記三1掲記の各証拠によれば、一般的には、閉鎖的処遇から開放的処遇への移行の第一段階における外出には、付添人があることが適当であるとされていることが認められるが、本件においては、三郎は、病棟内においては他患者と接触でき、面会も制限されない状態に置かれ、戸外の集団行動(レクリエーション)にも参加していたうえ、三郎と被告明石との間に信頼関係が形成されてきたため、所内に限って散歩を許可したものであり、一方で外出を許しながら監視を付けることによる治療効果の減殺を考えると、このような段階で単独での外出を許可したことをもって、医師の裁量の範囲を超えた不相当な措置であったとはいいがたい。なお、原告らは、入院時に、単独では外出させないことを確約した旨主張し、《証拠省略》中にはこれに沿うかの如き部分があるけれども、精神病院への入院の目的は、単に自殺防止のための拘束、監視のみにあるのではなく、病気そのものを治癒させ、社会復帰が可能な状態にまで回復させることにあることは明らかであり、治療は、病状に応じて医師の裁量によりなされることが原則である以上、症状の軽快にもかかわらず絶対に単独外出をさせないという趣旨においては、右のような確約がなされるものとはとうてい考えられず、右供述部分は採用し得ない。

2  次に、五日の外出の結果も良好であったことから、六日、被告明石が、原告らの承諾を得て、一泊の自宅帰泊をさせて、三郎の看護を原告らに委ねたことには、これを不当とすべき事情は何ら認められない。

そして、外泊の結果についての原告花子の報告も、良好と認められるものであったし、帰院後の三郎の態度にも異常な点は全く見られなかったものと認められるから、この外泊の結果によって七日以後における外出許可を再検討すべき事由が生じたとは認められない。

ところで、前掲乙第五号証手帳の記載についての二2(六)認定事実を前掲鑑定の結果に対照しつつ検討してみると、三郎のうつ病発病の誘因となったと推測される仕事についての自信喪失による絶望感、職場の人間関係の悩みは、入院して社会生活から隔離されたことによって、ひとまず念頭から遠ざかり、心の平穏を得、自殺念慮も薄れていたが、外泊を契機に、職場への復帰を現実の問題として意識し始めたため、急速に不安が昂じ、三月九日には、自殺を明らかに強く考えるようになり、後に自殺を決行した場所を同日既に死場所と考えていた節もあり、かなり自殺の決行に近づいていたと認められるけれども、他方、生への意欲をもなお失わず、また被告明石に対する恩義の感情が自殺を抑止してもいたものと認められ、生と死との間に揺れ動く心の状態を看取することができるのであり、翌一〇日の状況も概ね同様の状況であったとみることができる。

したがって、このような心理の変化、動揺を被告明石が読みとることができたとすれば、外出の制限その他の措置を講ずべきであったといわなければならない。しかし、看護記録の記載及び二2冒頭掲記の各証拠によってみても、七日の外泊から帰院後の三郎の態度には何らの変化もなく、平穏であり、八日以後一日に二ないし三回ずつ散歩をし(一日三回の散歩が異常に多いことは認めるに足りない。)、一〇日のレクリエーションにも楽しそうに参加していたのであり、強いて異常を求めるとすれば、九日に「気分に波がある。」と述べたことが心の動揺を推測させる手がかりではないかという点であるが、それも、右の手帳の記載に対照してみればまさにそれと解し得るというだけであって、外見上は、その前後の平静な状況に対比して、右の一言だけで、異常を認め、自殺念慮の再発を疑うべきであったとはいいがたい。七日の帰院時から一〇日までの診療について入所病歴に記載がないのは遺憾であり、とくに、自殺念慮が急速に強まったとみられる三月九日、一〇日に面接をしたか否かは、《証拠省略》によっても明確でないが、右のような看護記録等から認められる状況に照らし、同被告の診察により、いったん与えた外出許可を取消し又は要付添とすることを要するような精神状況の変化を読みとることができたものとは推測し得ないから、外出許可の取消等の措置をとらなかったことをもって、同被告の診療行為の過誤とすることはできない。

《証拠省略》中には、これと異なり、単独行動の許可は時期尚早であったとする判断部分があるが、これは、要するに前記手帳の記載から認められる内心の変化を考慮して判断を下しているものと解され、採用するに足りない。

3  なお、原告らは、被告明石に看護者に対する監督義務を怠った過失がある旨主張するが、《証拠省略》の記載によれば、一―四病棟の看護者らは、概ね患者の動静に良く気を配り、一見些細な言動をも看護記録に記載し、留意事項についての交代看護者への引継ぎや医師への伝達にも遺漏がなかったと認められるのであって、三郎について、看護者らが重要な事項を看過し又は伝達を怠ったことを認めるべき証拠はないから、看護者の過失を前提とする原告らの右主張は採用することができない。

4  その他全証拠を総合しても、被告明石に三郎の自殺防止についての過失があったことを認めることはできないから、同被告の不法行為責任についての原告らの主張は失当である。

5  なお、原告らは、被告明石の債務不履行責任をも主張するが、原告らは被告国の設置する武蔵療養所において三郎の診療を受けることとしたものであり、被告明石は、同所に勤務する医師として診療に従事するものであって、全証拠によっても、同被告がその職務とは別個に個人としての診療行為を行ったものとは認め得ないから、診療契約は、原告らと被告国との間に成立し、被告明石は、右契約についての被告国の履行補助者にすぎないことが明らかであり、原告らの右主張も理由がない。

五  被告猪瀬の責任については、原告らの主張する代理監督者責任は、被告明石の不法行為の成立を前提とするものであるところ、後者を認め得ないことは前記のとおりであるから、被告猪瀬の責任も認め得ない。

六1  被告国の使用者責任については、その前提とする被告明石の不法行為の成立が認められないので、これを認めることはできない。

2  被告国が原告らに対し診療契約上の義務を負うことは明らかであるが、既に判示したところによれば、その履行補助者である被告明石、その他の診療従事者の診療行為に過誤があったものとは認められず、したがって、被告国に右契約上の義務の不履行があったものとはいえないから、被告国に対する債務不履行責任の主張も理由がない。

七  以上の次第で、原告らの被告らに対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないからこれを棄却し、民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 小林久起 裁判長裁判官野田宏は転補につき、裁判官後藤邦春は転官につき、いずれも署名捺印することができない。裁判官 小林久起)

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